新聞記事等 3)2000年11月14日〜2000年12月09日

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2000年12月09日     京都新聞  記録を奪われて 薬害ヤコブ病患者のいま <<5
         
    ヒロ君 「なぜ、国は認可した」

 11月27日、東京地裁。世界最年少のヤコブ病患者、北海道在住のヒロ君(18)の両親が、103号法廷に立った。宣誓のあと、お母さんが弁護士の主尋問に答える。
 弁護士 「ヒロ君は1歳半の時に、脳腫瘍摘出の大手術を受けたのですね?」
  「小さな命が8時間も持つのかと、手術室の前を行ったり来たりして。心の中で祈ってました。成功を知って、主人と抱き合って喜びました。
 弁護士 「ヒロ君は1998年、高校に入学しましたね?」
  「はい。高校の体験学習で保育園に行って『ぼく保父になるんだ』といってました。その年の5月末、物忘れするようになり、歩き方がふらふらするようになって」
 原因不明で病院をたらい回しにされたこと、急速に無言無動へ進行する病状、ヤコブ病の告知。母は何度も涙で詰まりながら証言を続ける。原告席や傍聴席では、同じ経験をしてきた他の原告や遺族が、涙をぬぐう。
 反対尋問で、被告のドイツの製薬会社側が尋ねる。
 弁護士 「(ヒロ君の)脳腫瘍の手術で、乾燥硬膜を移植したことをあなたは確認しましたか?」
  「執刀した医師が主人に『硬膜を使った』といいました」
 
国精査が当然
 続いて、ヒロ君の父の尋問が行われた。涙で何度も途切れた妻の証言を支えるように、落ち着いた受け答えを続ける。
  「なぜ厚生省はこんなもの認可したのか。乾燥硬膜ライオデュラの輸入販売元会社で認可申請した人は、もともと厚生省にいた方だとお聞きました。本国ドイツより日本の方が早く使用が認可されたのは、不自然だと思います」
 だが、弁護士が製薬会社に対する思いを尋ねた時、突然、感情を高ぶらせ、絞り出すように叫んだ。
 「頭の中に入れる商品です。売り出すなら、汚染されてないかどうか精査するのが当たり前のことです。子供を奪われると、私の、生きる甲斐が・・・」
 続く反対尋問で、被告の国は「特にござません」とだけいった。裁判長は閉廷を告げた。原告らは隣の東京弁護士会館に移り、感想を話し合った。ヒロ君の母は「言いたいことを考えてきたけど、あがってしまい、取り乱して言えなかった。みなさんと手を取り合って、がんばっていきたいです」とあいさつした。
 
繰り返す悲劇
 薬害エイズやスモン、サリドマイドの被害者らが参加して、第2回「薬害根絶フォーラム」が今年10月、東京で開かれた。薬害ヤコブ病訴訟からは、東京訴訟の池藤勇さん、大津訴訟の上田宗さんらが参加。厚生省交渉で職員が「補償や救済は司法で結論がでるまで動くことができない」と発言したこと、衆院厚生委員会のヤコブ集中審議で、厚生大臣が「医療の進歩には、多少のリスクはやむをえない」との趣旨の発言したことなどを報告した。
 薬害エイズ被害者の花井十伍さんは、フォーラムでこう話した。「厚生省の対応の遅れ、製薬会社と結びつく医師や研究者。患者は何も知る立場にない。繰り返される薬害の構図は共通だ」
                     (おわり)
 
広がる被害
 
今月4日、大津地裁の薬害ヤコブ訴訟の口頭弁論があり、東京訴訟より一足早く、証人尋問を終えた。来年7月2日に結審、来年内にも判決が出る。大津訴訟で患者11人の家族・遺族が、東京訴訟では患者9人の家族らが原告となっている。今後も提訴する被害者は増える見込みだ。
 厚生省公衆衛生審議会の専門委員会によると、ヒト乾燥硬膜を移植後、ヤコブ病を発症した人が今年新たに3人判明し、計70人になった。ドイツから輸入された乾燥硬膜「ライオデュラ」は1997年の使用停止まで、累計で40〜50万枚も移植されたうえ、ヤコブ病の潜伏期間が長いため、今後も患者の増加が懸念される。
 弁護団は、「1日も早く訴訟を解決することが、今後発症する人も含めて、すべての患者の救済につながる」と話している。

2000年12月08日     京都新聞  記録を奪われて 薬害ヤコブ病患者のいま <<4
         
    谷たか子さん 父娘、母の無念晴らす

 「お母さん、誕生日おめでとう」。手作りのケーキにろうそくの火が灯され、娘3人の明るい声とオレンジ色の淡い光が、ベッドに横たわる母を包む。「だれが火を消そうか」。小さな火さえ消すことができない母に代わり、娘3人が吹き消した。今年9月23日、谷たか子さんは46歳の誕生日を迎えた。ヤコブ病を発症して約4年半。「5度目の誕生日を祝えるなんて」。長女三代子さん(23)は、何も言わない母の顔をやさしくなでた。
 1996年6月、新聞に「硬膜移植からヤコブ病感染の疑い」との記事が載った。直感した父は、大津市内の病院で妻が7年前に受けた開頭手術を疑い、汚染硬膜が移植されていることを突き止めた。娘たちの前で父は「裁判を起こす」と言い出した。父がたった1人で始めた全国初の「薬害ヤコブ病」の訴訟はマスコミの注目を集めた。
 母が転院する日、病院玄関前にテレビの取材クルーが待っていた。担架で運ばれるたか子さんを、カメラが病室まで追う。顔は撮らない約束だった。だが帰宅後、テレビを見ると、鼻から管を通し、うつろに天井を見つめる母の顔がニュースで流れていた。
 進路迷った娘
 父に「テレビに映らんようにしてあげて」と頼んだ。「事実を知らせんとあかんのや」「母さんはどう思ってるかわかれへん」。
 後日、三代子さんは家族の闘病日誌をめくっていて、父の字を見つけた。「また撮らせてしまった。これも裁判に勝つため、この無念を晴らすために」。
 「母さんを、家で介護しよう」。入院生活9ヶ月目の冬、突然父が告げた。「就職が決まっているのに」と三代子さんはとまどった。高校2年の妹も「専門学校に行けなくなる」と訴えた。医師の告知は「余命数ヶ月」だった。「母さんも家族と一緒がいいはず」。悩んだ末、2人は母の介護を選んだ。
 病状が進んだ母は、痰が詰まっても自力で出せない。自宅で介護を始めたら、痰の吸引は家族の仕事になる。
 夜、病室で、たか子さんがうなり声を上げた。三代子さんは初めて、ナースコールを押さなかった。ベッドの吸引機につながる直径3_ほどの管を取り上げ、震える手で少しずつ鼻から、入れた。「母さん痛くない」。管の先が何かに当たり止まった。母の顔がゆがんだ。「ごめん、痛かったね」。さらにそっと入れた。「ズ、ズー」痰が管を通り、苦しんでいた母の顔がほっとゆるんだ。
 
徹夜で介護も
 この3年半、家族4人が交代でたか子さんのそばに付いて看病している。介護保険制度が今年4月から始まり、たか子さんは最も重い要介護5と認定された。平日の日中は、ホームヘルパーがやってくるようになった。家族は「これで少し楽になる」と期待した。娘3人も就職や進学を決め、全員がやっと自分の道を進み始めた。
 しかし、やってきたヘルパーは「痰の吸引は医療行為で、法律上できなくて」と申し訳なさそうに断った。吸引のため看護婦も頼んだが、3時間に1度しか来ない。
 寒くなり、母の痰が詰まる回数が増えた。昨晩は当番だったけど、徹夜で痰の吸引だった。お母さん、のどを詰まらせたりしないかな。三代子さんは、眠らないまま会社に向かった。
 厚生省交渉
谷三一さんは、1996年、国と乾燥硬膜輸入元などを相手取り、汚染されたヒト乾燥硬膜を移植され妻がヤコブ病になったとして大津地裁に提訴。危険を知りながら放置した厚生省の責任を追及する一方、その後裁判に加わった被害者や弁護団とともに、同省との交渉の先頭に立っている。
 交渉では、入院患者への医療態勢、在宅患者家族の介護負担を軽減するなど、救済制度を求めてきた。だが弁護団事務局長の三重利典弁護士は「厚生省は被害者のために、新たな施策を取っていない。厚生省が作った薬害であり、国として医療を含めた救済する責任がある」と話す。
 また潜伏期間が20年にも及ぶなど非常に長いヤコブ病では、今後も発症者が増加することが予想される。谷さんらは、ほとんどの人が硬膜移植されたことを知らずに生活している現状を憂い、同省に移植された人に事実や発症リスクを伝えるべきだと訴えているが、厚生省は応じていない。

2000年12月07日     京都新聞  記録を奪われて 薬害ヤコブ病患者のいま <<3
         
    K・Wさん 「偏見」 「誤解」根強く

 5歳の息子のおたふくかぜで、会社を休んだ次の日。「きのう休んですいませんでした」。そう頭を下げると、建設会社のオーナーはいった。「ご主人の病気が子供にうつったの?」。Wさん(36)は、黙って床を見つめた。
 <ヤコブ病は、日常生活の接触で感染することはない。だが誤解から医療現場が患者をたらい回しにしたり、受け入れ先がないなどの問題がおき、厚生省は先月13日、各都道府県を通じ、医療機関に「2次感染防止のための隔離は必要がない」ことを徹底するよう要請した>
 会社で薬害ヤコブ被害者の声を集めた文集「心の叫び」の冊子を配ったし、みんなはヤコブ病がどういう病気なのか、言葉にしないけど理解してくれていると思ってた。でも周囲の人にとっては気味の悪い話しにすぎなかったんだ。悔しさをこらえ、幼い息子の顔を思い浮かべた。
 
匿名を続ける
 Wさんは、夫のKさんをヤコブ病で失った後、薬害ヤコブ訴訟の原告に加わったが、匿名を続けている。今、長男は保育園児。父のヤコブのことで、周囲の人にいじめられたりしないか。心ない言葉で傷つけられるんじゃないか。「子供を守るためには、どうしても匿名じゃないと」。
 Wさん夫婦は1994年、長男を授かった。新しい家族が増えた幸せな日々は、わずか10ヶ月しか続かなかった。突然、夫の様子がおかしくなった。「人がエィリアンに見える」「俺の指は何本ある?」。まっすぐ歩くことも、うまく物を持つこともできない。
 零歳児を抱えて、Wさんは夫をいろんな病院に連れていった。原因不明。夫が32歳と若かったため「怠け病」「子供に返っている」といわれたこともあった。病状は進み、会社の上司は夫に休養を命じた。
 その年に夫が入院し、Wさんの生活は一変した。病院を転々とさせられ、無言で震え続ける夫。遠方の病院での介護と育児が、Wさん1人の肩にのしかかった。3つ目の入院先でヤコブ病が疑われ、病院は個室でしか受け入れてくれなくなった。個室代月額30万円。貯金はすぐ底をついた。
 「とても個室の差額ベッド代は払えない」と、Wさんは病院の担当者にいったが、取り合ってくれない。子供を保育園に預けて、パートでなんとか医療費をつくった。厚生省にも相談したが、公的な援助はなかった。関東の夫の両親と、医療費や介護の負担でもめた。「発病までは仲が良かったんだけど」。溝ができ、疎遠になった。
 
息子のために
 厚生省がヤコブ病を難病に指定したのは97年。夫の死の1年前だった。
 いま6歳の息子は、やんちゃ盛り。なんでもWさんに質問するが、「パパは死んだの?」とは絶対尋ねない。Wさんには、幼い子供の気遣いに思えて、せつなくなる。
 子供が大きくなったら、「あなたのお父さんは国の犠牲になったんだよ。お母さんは国や製薬会社と闘ったんだよ」といいたい。Wさんにとって、裁判は息子のための勝負だ。
 偏見を恐れる親戚の反対で、ヤコブ病訴訟に加わるのをあきらめた遺族がいると、弁護団はいう。弁護団に被害を相談したが、その後連絡が途絶え、弁護士が被害者の文集を送ると、「思い出したくないので」と送り返してきた人もいる。

2000年12月06日     京都新聞  記録を奪われて 薬害ヤコブ病患者のいま <<2
         
    上田 尚さん 医師だからできる事

 主治医が病名を教えてくれないんだよなと、父がいう。息子も父も医師。隠す理由はなかった。2年以内に90%以上が死亡すること。治療法はないこと。1999年1月、上田宗さん(32)は、ヤコブ病であることを告知した。
 「おやじの人生って、どうだった?」。病床で父は親指を立て「最高!」と笑顔を見せた。自分の墓のデザインを話し始め、発症前と変わらず、親子は笑いあった。そのあとで、父は「自分の体をヤコブ病研究に役立ててほしい」と息子に頼んだ。
 だが、次の朝、父が「靴を出せ!厚生省へ文句をいってくる」と叫んで、病室のベッドから何度も立ちあがろうとし、ベッドに縛り付けられたと、後で聞かされた。2日後、父はほとんど会話ができなくなった。
 入院先の岐阜県の病院で父の尚さんは、その11年前に脳腫瘍(しゅよう)の摘出手術を受けたことがあった。宗さんも以前、この病院で研修医時代を過ごした。院長に面会を求めた。
 
カルテはない
 「以前、おやじはここで脳外科手術を受けていますけど、まさか、硬膜使ってないですよね?」
 「それが、どうも使ったようだ。5かける5センチ」
 汚染された脳硬膜を移植された人が、父のほかにいるのでは。残された時間を有意義に使えるようにしてあげたい。宗さんはそう思い、院長に、病院でヒト乾燥硬膜を移植した件数や、硬膜の製造番号を確認するよう頼んだ。何ヶ月も待たされた末、返事は「保存期間が過ぎている。カルテや記録がない」だった。
 11年前に父の脳外科手術を担当した脳外科医にも電話した。「知らない。覚えていない」というばかり。別の関係者から、この病院で父と前後してヤコブ病患者が3人出たことは突き止めたが、そこまで。薬害の被害者になって初めて、「医療の閉鎖性」がどういうものか思い知らされた。
 インターネットで大津地裁の薬害ヤコブ病訴訟のことを知った。加わるべきかどうか。家族に相談したが反対意見が多かった。「宗さん、お医者さんだし、厚生省にいじわるされる」。勤めていた大学病院の教授も同じ意見だった。医師として、医師免許や薬事行政をつかさどる厚生省に、えたいのしれない恐怖を感じた。
 
黙っていては
 半年が過ぎ、提訴に消極的な気持ちのまま、大津地裁でヤコブ病訴訟を傍聴した。厚生省のヤコブ研究班のメンバーだった北本哲之東北大医学部教授が「米国や日本で2、3症例だけだったので、1996年まで硬膜移植が危険と認識できなかった」と証言し、厚生省の責任を否定した。
 医師である自分が黙ってていいのか。医師だからこそ薬害防止にできることがあるのではないか。父ならどうするか。法廷を出たあと、提訴を決意した。
 99年12月、父の死期が迫った。家で父が残したビデオを再生すると、元気だった父が話し始めた。
 「人は祝福されて生まれてくる。去っていくときも、祝福されて去っていってほしいと思う」
 その日から、息子はビデオで父が去っていく姿を克明に記録した。死後、病理解剖された父の脳の重さは約880c。平均の60%にまで減少していた。

2000年12月05日     京都新聞  記録を奪われて 薬害ヤコブ病患者のいま <<1
         
    林 琢己さん 夢を断った硬膜移植

 母は手づくりのオムライスを大津市内の病院に持ち込み、ベッドの上の息子の口元に運んだ。「食べて。元気ださなあかん」。かむ力もなく、頬にため込むだけ。やるせない気持ちで息子の口に指を入れて、取り除いた。1999年夏のこと。間もなく「お母さん、ありがとう」と言ったのが最後の言葉になった。焦点の合わない目で病室の天井を見つめる息子。
 林琢己さん(31)は、その1年前の98年5月ごろから、ぼんやりとしていることが多くなった。記憶があいまいになり、食事を済ませたばかりなのにまた食べる。方向感覚が鈍り、まっすぐに進めない。原因不明のまま、入院。夜は幻覚で「天井が落ちてくる」と叫び、昼は目を覚ますたびに「きょうは何日」と繰り返した。
 99年11月、検査の結果が出た。医師は、母にヤコブ病と告げた。琢己さんが中学3年の時に受けた脳しゅようの摘出手術で、移植された乾燥硬膜が原因だった。
 奇跡を願う母
 
人工呼吸器が付けられた病室には、琢己さんが描いた5枚の絵はがきが飾られている。やさしい筆づかいのナデシコやアジサイの水彩画。母は絵に目をやりながら、過去に壁を乗り越えた息子の努力を確かめ、奇跡を願う。
 琢己さんは中3まで元気な野球少年だったが、脳しゅようの手術で手足に重い障害が残った。医師は、車いすをこぐことさえ無理だろうと言った。編入した養護学校でリハビリのプログラムに取り組むなか、絵画と出会った。
 握力がほとんどなくなった琢己さんは絵筆を持つのも難しかった。母は絵筆に分厚くスポンジを巻き、握りやすくした。「思いのまま自由な世界を描き上げたい」。電車で30分かけ、小学生対象の児童美術教室に通い始めた。母が庭で育てている花や父が持ち帰った草木を次々と写生し、約500点を仕上げた。
 重度の身体障害者になってから15年かけて、琢己さんは一歩ずつ可能性を広げていった。簿記の資格を取得し、車イスバスケットボールにも打ち込んだ。書籍などのワープロ打ちに仕事もこなした。だが、ヤコブ病は、青年になった琢己さんを暗黒の世界へ導いた。
 
手紙送り返す
大津市のギャラリーで今年6月、「いつか個展を開きたい」と言っていた琢己さんの夢を、仲間たちがかなえた。病室で寝たきりの琢己さんに、母は個展の開催を報告した。「琢己は何か言いたそうだった。つばを出し、顔を真っ赤にさせて」
 だが、もう、母の呼びかけにも反応を示さない。「苦しいはずなのに、表情すら作ることができないなんて」と母は思う。流れる涙に「ひょっとしたら、何かを訴えようとしているのかも」と話しかけ続けている。
 10月14日、国として初めて厚生省の総括政務次官が、琢己さんの病室を訪れた。母志津代さん(59)は「琢己が生きているうちに謝罪して」と訴えたが、非を認めていない厚生省から期待する答えが返ってくるはずもなかった。後日、厚生省から手紙が届いた。便せんには、別の原告の名前が間違って記載されていた。ヤコブ病を生んだ同省の体質が重なった。腹が立ち、送り返した。
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 提訴から4年、大津地裁のヤコブ病訴訟で証人尋問が終わり、薬害ヤコブ病問題は大きな節目を迎えた。ヤコブ病患者の家族や遺族は、急速に言葉や記憶、体の自由を失っていく家族の悲しみと、行政への怒りを訴えた。ヒト乾燥硬膜こそ使用中止になったが、原告の証言は、病気への偏見、介護問題、医療の閉鎖性など、さまざまな問題が解決されていないことを浮き彫りにした。原告の声を通して被害の実態を報告する。  (滋賀本社 岡本晃明、住田崇、清原 稔也)
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琢己さんのはがき

2000年12月05日     朝日新聞  「ヤコブ病訴訟」
         
    来年7月結審へ  大津地裁 判決は来秋以降

 汚染された硬膜を使った脳外科手術でクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)に感染したとして、甲西町の谷たか子さん(46)らが国などを相手取って損害賠償を求めている訴訟の第29回口頭弁論が4日、大津地裁(神吉正則裁判長)であり、原告の患者家族4人が被害の実態を訴えた。この日で、双方の証人尋問、本人尋問がすべて終了した。閉廷後にあった進行協議で、結審は来年7月2日に決まった。
 証言台に立ったのは、昨年12月に死亡した岐阜県中津川市の上田尚さん(当時70)の長男宗さん(32)ら。尚さんは、1987年7月、同市内の病院で脳腫ようの手術を受けた際、硬膜を移植され、98年ごろ発症した。宗さんは、尚さんが元気だったころから、死亡前日までの日々を撮っていたビデオを一部上映。孫の成長を楽しみにしていた尚さんがCJDを発症し、方向感覚を失い、無限無動の状態になるまでや、それを見守り続けた家族の苦しみを訴えた。
 原告側はこれまで、来年3月の結審を主張していたが、この日の進行協議で被告側が「最終準備書面を提出するには時間が足りない」と拒否。双方が5月末までに書面の提出を終え、7月に結審することで合意した。判決は来年秋以降になる見通し。

2000年11月14日     京都新聞  「ヤコブ病」
         
差額ベット代は不要  厚生省、患者救済で

 厚生省は13日、難病のクロイツフェルト・ヤコブ病患者が個室に入院した場合、一律に治療の必要から入院したとみなし、医療機関は差額ベッド代を徴収してはならない、という新たな取り扱いを決めた。
 都道府県の難病担当者を集めた同日の会議で、12月1日から全国の医療機関で実施するよう指示した。こうした措置は、1998年にエイズウイルス感染者を対象に実施したのに次いで2例目。ヒト乾燥脳硬膜を移植された患者にヤコブ病が多発、患者側から「個室に入院すると、医療保険が適用されずに高額の差額ベッド代を請求される」との訴えが寄せられていることに配慮した。
 厚生省によると、硬膜移植が原因かどうかを問わず患者は、「絶対安静が必要」などの要件を満たした場合に限り保険適用が認められる「重症者等療養環境特別加算」の対象となる。
 ヤコブ病患者の入院をめぐっては、感染の恐れなどから偏見が生まれ、医療現場をたらい回しされるケースが指摘され、厚生省は患者の入院先確保などを検討していた。同省はこの日の会議で、各医療機関も前向きに患者の受け入れに取り組むよう求めた。

患者らを訪れるのは初めて。患者らの現状を把握することで、今後の厚生省の支援策に生かしていくことが目的。
 福島次官らが訪れたのは、大津市内の男性患者(31)と、国内で初めて、国や製薬会社などへの損害賠償の訴えを起こしている原告谷たか子さん(46)=同県甲西町下田=の2人。
 福島次官らは、大津市内の病院で男性患者を見舞った後、自宅で闘病生活を送る谷さんを訪問。たか子さんの夫三一さん(51)は、次官らに、1989年の脳外科手術やヤコブ病発症の経緯、意識不明の状態が続くたか子さんの介護の苦労などを語った。
 また、谷さんら原告は、@(厚生省は)法的責任を認めることAヤコブ病治療の研究、開発を進めること--などを求めた津島雄二厚生大臣あての要求書を福島次官に手渡した。
 福島次官は、谷さん宅を訪問後、「省としてどのような対応ができるかさらに検討していきたい」と、支援策への意欲をにじませたが、厚生省の責任については「司法の判断に任せたい」と明言を避けた。
 これに対し、三一さんは「もつと早く厚生省に来てほしかった。国は速やかに責任を認めてほしい」と訴えた。

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