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谷家から現在の心境

谷 三一 2001年2月

 
先般亡き妻たか子永眠の節には、温かなお悔やみの言葉やご香料を頂き誠に有難う御座いました。妻はヤコブ病になり4年9ヶ月頑張ってまいりましたが、1月23日ヤコブ病が原因で死去いたしました。
  また妻が亡くなる3日前の1月20日 林 琢己君もヤコブ病で亡くなりました、私はとても言葉では言い表せないほど悔しいです、又寂しいです。
  薬害で植え付けられた病気で有ることがわかり5年前の1996年11月、日本で初めて薬害ヤコブ病で提訴しました。
  そして、真実が知りたい、又、私の家族のように苦しんでいる人がたくさんいるはずだと思いつつ、毎日、気を張り詰めてまいりました。そして植物状態でも生きようとする妻の力が私や家族に、ものすごい力を与えてくれました.多くの人に支えられて4年9ヶ月、妻と共にがんばりました。林 琢己君に続いて、たか子の死、このような時が来ると覚悟はしていましたが、現実に死を受止め、体の力が抜けてしまいました。多くの人が驚かれ涙を流して下さいました。無念、悔しさ、怒りでいっぱいです。私は薬害ヤコブ病で亡くなった方々は、国やB.ブラウン社などに殺されたと思っています。
  不思議な事には、偶然にも、12年前の1989年1月23日のたか子が手術を受けた日と、2001年1月23日の亡くなった日とが巳年の同じ日、おそらく、たか子にはこの世との別れが分かり、被告たちに無言の訴えをしたのだと思います。植物状態でも、このように無念の思いを訴えた妻を思うと、私も子供達家族もいつまでも寂しいと悲しんでいられなく、一日も早く立ち直るよう努力します。
  今後は皆様の励ましの言葉に元気付けられ、裁判や仕事に頑張り妻の分まで強く生き抜く決心でいます。 有難う御座いました。

 

賀県甲賀郡甲西町の谷たか子さん(45才)は、1996年にクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)と診断された。治療法もない不治の病。たか子さんは過去に脳外科手術を受け、「ヒト乾燥硬膜」という医療用具を移植された。それがヤコブ病に汚染されていたため、たか子さんの身体に入り込んでしまった。しかも、その危険性を知りながら、厚生省はこれを放置、「薬害」を拡大させた。同じ硬膜移植による感染者はわかっているだけでも日本だけで65人。薬害エイズの構図と同じ、防ぐことの出来た人災が、又繰り返された。
家で一番日当たりのいい一室が、たか子さんの部屋。ベッドを挟みソファベッド、バスタブ。たか子さんが大好きな花々があちこちに彩りを添えている。「ううっ、うう・・・・・」たか子さんは時折、言葉にならないうめき声をあげる。夫の三一さん(50)が「どうした、たか子」と応じて、その手を優しく握り締めた。「たか子、たか子、頑張って直そう言うたやろ。なあ、たか子」返事は残念ながら、ないが、三一さんは、こうして以前と同じように妻に呼びかけるのを常としている。寝たきりで闘病生活を続けるたか子さんを、家族の手厚い介護が支えている。牧場を経営する三一さんと三人姉妹。
ローテーションを組み、24時間体制でたか子さんに寄り添う。鼻につながれたチューブが栄養を送る”命綱”だ。行き届いたケアゆえか、たか子さんの肌は少女のよう。だが、その若々しさは、逆に痛ましい。たか子さんに異変が現れたのは、96年3月下旬。一家5人でハワイ旅行をした直後だった。頭痛や目の霞み。時差ぼけにみえた症状は一気に進む。110m先の郵便局に行こうとして途中で行き先がわからなくなった。家のトイレも1人で行けなくなった。

96年5月26日。入院2日目

に記された「最後の日記」

5月24日、入院。2日後(ゆうべこわいゆめをみた。わたしのゆめをぜんぶけそうとしている。まっくらになってこわかった)と乱れた文字で綴ったのが、最後の自筆になった。

幻覚、幻聴。歩行も会話も困難になるばかり、三一さんはどうすることもできない。たか子さんと二人、涙を流す日々。我が身に起こることを予感するのか、たか子さんは、「お父さん、もうだめだ。今度生まれてきてもお父さんと一緒」と告げた。

たか子さんは、25年前、牛の仕入れに赴いた三一さんと秋田で出会い、言葉も生活様式も違う滋賀の地に20歳で嫁いできた。牧場の仕事、子育てにと明け暮れた苦労が報われ、これからという矢先の暗転だった。

医師に告げられたのは100万人に1人の難病「クロイツフェルト・ヤコブ病」。感染性のたんぱく質・プリオンが脳内で増殖、脳細胞の萎縮などを招き、発病から短期間で寝たきりになる。多くの場合、1、2年でなくなるという。事実上死の宣告だった

  汚染硬膜が”植え”つけられた 
1996(平成8)年6月20日、新聞に小さな記事がのった。三一さんは「これだ」と直感する。脳外科手術の硬膜移植により、ヤコブ病に感染した患者が9人いるという、厚生省研究班の発表だった。実はたか子さんは脊髄空洞症という疾患で、89年1月、滋賀県の大津市民病院で脳外科手術を受けていた。証拠保全した当時のカルテには、問題の「ヒト乾燥硬膜」の移植が記されていた。硬膜とは頭の骨と脳の間にある保護膜だ。開頭手術などで硬膜などを切り取ったあと、縫合時に”ツギ”あてが必要になる。その際、用いられたのが「ヒト乾燥硬膜」。たか子さんに移植されたのは、ドイツのBブラウン社の製品名「ライオデュラ」という乾燥硬膜で、ドナー(死体)から提供された脳硬膜から製造されたものだ。後に同社が複数のドナーから採取した硬膜を混合して処理していたなどの、ずさんな工程も明らかになっていく。こうして汚染された硬膜が、たか子さんにも移植された。
しかし、こうした汚染硬膜の危険性については、たか子さんに移植される2年も前の87年、米国で警鐘を鳴らされていた。米国疾病対策センターが、硬膜移植を受けた28歳の患者の症例を報告、「移植が病原体の媒体の疑い」と警告したのがそれだ。米食品医薬品局は、つづいて汚染された可能性のある硬膜を廃棄するよう勧告した。これらは全世界に向けて発信され、日本でも、翻訳されて雑誌に載った。それを厚生省も購読していた。だが、何の措置もとられなかった。

三一さんが新聞でみた厚生省の調査はそれから9年後。その調査自体、そもそもが当時、狂牛病が問題化し、イギリスで牛から感染した可能性もある「新型ヤコブ病」が報告されるなどしたため行われた「新型」の調査だった。ところが、硬膜移植による症例報告が相次ぎ、調査は”軌道修正”された。

  運が悪いでは済まされない 

------日本で初めての「薬害ヤコブ病訴訟」------

その年96年11月、三一さんとたか子さんは、国(厚生省)と硬膜の輸入販売元の日本ビー・エス・エス社(BSS社)などを相手に損害賠償を求める訴訟を、大津地裁におこした。日本で初めての「薬害ヤコブ病訴訟」である。ヒト乾燥硬膜移植によりヤコブ病が発症する危険性を予測できたかどうかが大きな争点。国は全面的に争う姿勢を示している。

運が悪いでは済まされない。被害者は見殺しです」

「CJD薬害訴訟を支える会」を結成
三一さんの同級生たちが地元の甲西町で「CJD薬害訴訟を支える会」を結成。訴訟の審理促進を要請して署名運動を展開、今ではその数、10万を越した。「薬害ヤコブ病問題の早期解決を求める意見書」は滋賀県の全市町村議会で採択されたのをはじめ、たか子さんの生まれた秋田や、三一さんが高校に通った三重でも取り組まれている。
生あるうちに、という願いは切実だ。三一さんたちは、輸入販売会社などを刑事告発もしている。

「元気になると信じて受けた手術でこんなことになるなんて。たか子はモノをいわないけれど、どんなにか無念か。その無念を晴らしたい。仇を討ちたいという思いです」

厚生省は97年3月、ついに移植用硬膜の使用中止を決定した。米国の「廃棄勧告」から10年遅れ。厚生省の認可が73年。以降、ヒト乾燥硬膜は50万枚使われていた。ヤコブ病の症例900余例のうち、硬膜に因果関係が有ると見られるのは65。隠れた被害者はもっといるはずだ。潜伏期間も長く、最終的には100人あまりになるのではという見方もある。

  辛いのは 通りこした 

発病間もない頃、言葉が失われていくなか、たか子さんは何度も、家に帰りたい、とせがんだ。地元の病院看護婦、保健婦の支援を得ての在宅介護をはじめて、この5月で丸2年。2、3日に一度の入浴では、反応のないはずのたか子さんの表情が、三一さんには確実に和らいで見える。たか子さんに届いていると信じて、三一さんは呼びかける。三一さんの情愛の深さを目の当たりにすると、いつか本当に奇跡がおき、たか子さんが返事をするのではないかと思えてしまう。

「辛いのを通り越して私達家族は強くなりました」と三一さんはいう。たか子さんを支える家族が、逆にたか子さんに支えられている。しかし、却ってたか子さんには、苦しく、辛い思いをさせてはいないかという不安もふとよぎる、という。全身で薬害を告発するたか子さんと家族の闘いは1日1日、かけがえがない。