ヤコブ病で亡くなった前田直幸さんのお母さん、公榮さんの手記
9年11月23日

今は何を云ってもさけんでも直幸は帰って来てはくれない。

2年前、新聞の勧誘が来て断る事の出来ない貴方は1年後、2年後の約束をして頂いた小さな石けんまでも淋しそうにおいてあるネ。

1年前の夕べ、22日寒かった夜8時すぎ人通りのない場所を選び歩けない直幸を無理に連れ出し、やっとやっと歩かせ役場の庭を肩につかまりながら歩かせた、橋の上を車の通る下を見て、「こわい、こわい」といって私にしがみついていたネ。じっとがまんして1歩1歩やっとやっと歩いた。何とかしなければ、体がかたまってしまう、お母さんは必死だったんだよ。このまま動けなくなってしまったらどうしよう、病院に行けば甘ったれ病といって精神病扱い、相手にしてくれない、悲しかったネ。




10年1月2日

痛かったよね、痛いよネ。5月17日痰がつまり、口のあかなかった歯と歯がついて離れない開かない。無理に歯を折り管を入れ痰を取ってもらった。病院から連絡が入り、飛んで行った。目を赤くはらし、涙があふれていた貴方を見て、「ごめんネ、ごめんネ。かわってあげる事が出来なくて。がんばったネ。」。手を思いっきりにぎってくれたネ。

智恵子が、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」て食べる事の大好きだった貴方にいっぱいそなえてあるから、思うぞんぶん食べてネ。「墓場の姉ちゃん」て自分であだ名を付けて毎週お墓に行ってるのわかる、わかるよネ。




5月23日

貴方が帰らなくなって1年が来てしまいます。昨日の出来事のようで、夢でも見ている気持ちです。

大勢の人達に見送られて、こんなにも貴方がお世話になっていたのかと、こんなに友人知人が見送ってくれて今感謝の気持ちでいっぱいです。

1日も早くこの世に、お母さん智恵子のそばに帰って来てくれる事を夢見ています。



横になってテレビを見ていた息子が、「頭がいたい。割れるように。」と頭をかかえながら辛そうに声を出していた。息子に声をかけると、開けた目が濁っていた、瞳がほんの少しあるだけで私をみつめていました。どうしたんだろう。不吉な予感がした。最近熱も出すようになり、一晩中苦しそうに熱を出し汗をかき、冷やしてやった事もありました。

朝になると熱も下がり、汗もおさまりシャワーをあびて仕事に出かけていきました。病院に行くことを勧めても、「だいじょうぶ、だいじょうぶ、がんばるからだいじょうぶ」と、口癖のように私に心配をかけまいとして笑ってみせていたのです。いく日かして息子の頭がふるえているのに気づき、横になっている以外いつでも、どこでも頭を動かして、直らない自分で頭をシャンプーしようとして、下を向いた時だと思います。ものすごい音がしたので、どうしたんだろうと思って見ると、体全体でしりもちをついていた。異常としかとれなかった。病院に行くと「何でもない。どこも悪くない。」といわれ、そのうちに、耳があまりよくきこえなくなり、目もまぶしくなり、さらに歩けなくなってしまいました。口もあまりよく話せなくなってしまいました。

目が、耳が、口が、足が、大きな病院でかかりつけの病院で検査しても「異常なし」といわれ、それでも病院につれていくと、精神科にまわされました。状態を先生に伝えても、先生からのかえってくる言葉は、「甘ったれ病だよ。」。「耳が、あまりよく聞こえないんです。」と、伝えても、「聞こえているじゃないか。」といわれました。耳の聞こえない息子は、先生の顔を見て、ただうなづいているだけなのに、先生には、わかってもらえなかった。強い薬を出され、本で調べてみると強い薬でした。飲ませませんでした。

気づいてみると家の階段を、はうようにして上がって行った。下りる時はおしりを引きずるようにして1段1段手さぐりで、下りていました。それでも病院では「甘ったれ病」だと云われ、入院させてほしいと云っても「そんなに入院したければ普通の病院には入れられない」ともいわれ、許せないひどい言葉を息子の前であびせられました。もうだめだ、この病院では何を云っても精神病扱い。信頼していた病院を後に知人の紹介で個人の病院に行きました。私には病院の関係事はよくわかりませんが、先生方のグループ関係の病院へ2,3軒行きました。先生方の紹介で入院させてもらえる病院についた時には、すでに体の変調をうったえてから1年もたってしまいました。

平成9年3月4日。「4」という字はとてもいやだったのですが、そんな呑気なことは云っていられません。大きな息子の体を娘と2人で支えるのがやっとでした。入院する朝歩けない体を何とか動かそうとがんばっていました。「お母さん。」。大きな声ではっきりと「お母さん」と呼びました。声の出せない口から大きな精いっぱいに出た「お母さん」という叫びが、はっきりと出た最後の言葉でした。

自宅から高速で1時間近くかかる病院まで行き先生の前で車椅子で診察を受けた息子が、かすれるナイショ話をするようなとぎれた声で「先生よろしくお願いします。」と、もちろん先生には通じません。私と娘にしか分からない声で挨拶をしていました。誰にでも気を使っていた息子は、これからお世話になる先生看護婦さんにお願いしていたのでしょうか、涙が止まりませんでした。その日から入院させて頂き担当になってくれた先生がいろいろ検査してくれました。その間毎日のように娘と私は病院に通い、食べる事の大好きだった息子は、だんだんと食べる事さえ、口を開ける事さえできない。最初入院した当時車椅子に乗っていられたのに。寝たきりの状態で何本もの注射、体を自分で動かす事さえ出来ません。

元気つけました。「元気になったらいっぱい食べようネ。」と、ジュースをストローで口に入れる事しか。氷を口にあてると少し口を開けてうれしそうにしてくれました。息子と娘は元気な頃、よく指相撲やって兄として妹に勝たせて楽しそうにふざけていました。今度は病院のベッドで妹として兄に勝たせていたのです。安心しきったあのうれしそうな笑顔が今でも忘れる事が出来ません。

5月16日。1年前の平成9年の今日、とても気分がよくペンをもたせ字を書かせました。字にはなりませんが自分なりに必死に書いたのでしょう、ジュースをのませ体をふいてあげ、汗かきの顔頭、今にもベッドから起き上がって「早く家に帰ろうよ。」というほど具合がよかった。「帰るからネ、又明日来るネ。」と言うと、唇を「バイバイ」動かした手をふってくれた、笑いながら絶対治る、元気になって退院出来るんだ。

次の17日、病院から電話。痰がつまり、口があかない。無理にあけ、歯を折って管を通し痰をとったそうです。声のでない息子は「痛い、辛い、苦しい。」とも口から出ない声で何を考え、誰を思い出し、苦しさと戦っていたのでしょう。急いで息子のそばに行き手を触れると、おびえていました。娘と私の手だとわかると真っ赤に泣きはらした目から大粒の涙があふれて来ました。ごめんネ、ごめんネ、このつらさを代わってやりたい。どうして我が子に、こんな苦しいつらい思いをさせなければならないのか。人を思いやり自分の事よりも周りの人達に気を遣っていた気持ちのやさしい、笑顔をたやさなかった我が子がどうして。

鼻から管を通し、2週間痰をとり、その後のどを切開し、管を通し、そのたびに苦しさに耐え、おびえ、あばれる事さえ出来ない。娘と私の手を握っている時だけ安心し、手を離そうとすると、にぎりしめて離そうとしなかった。血圧は下がり、尿は濁り、苦しさに耐えている息子は、「生きるんだ。助かるんだ。」と、指相撲をするしぐさで、指を動かし、娘と手をにぎりあっていました。

6月16日ラジオをつけてくれた看護婦さんが、ベッドから起こしてくれた。おきられた、治るんだ 。

19日容態が急変し血圧が下がり尿が出ない、先生に時間を切られた。手を握っても感覚がない。顔、体を拭いても耳元で声をかけても反応が無い。奇跡を信じ神に手を合わせ、お守りを握らせ体をさすり続けた。ぜったい助かる、助かるんだと心の中で叫びながら。

6月20日夜中いっぱい大嵐でした。病室の窓ガラスの網戸が、大きな音をたて、レールを行ったりきたりしていた。この大きな音で息子の意識がもどってくれればと願いつつ。嵐も治まりカラッと晴れた朝を迎え、夕べの事が夢のようだった。雨がやみ、嵐が去り、息子は目をさます事なく、先生、看護婦達に見守られながら、娘の手を握り私の手を握り旅立っていってしまいました。いろんな人に会いたかっただろうに。最後まで精神病だと思い、誰にも会いたがらなかった息子は淋しかったと思います。

「死」、「亡くなる」。こういう言葉は使いたくない、絶対に。どちらからともなく娘の口から私の口から出た言葉でした。

1年前の今頃、2年前、3年前の今頃、思い出す事ばかり。息子は私を年寄扱いして。「老後のめんどうは、みてやるからな、安心していいよ。」といつも言っていました。子供が大好きだった息子はスポーツ少年団に入り、小さい頃から剣道をやっていました。「大人になったら子供たちとやるんだ。」といって、少年団の子供たちと練習して、いろんなところに試合にもつれて行き、嬉しそうにいつもニコニコして子供たちの話をしてくれました。体をこわしてからだんだんと自分のみじめな姿を子供たちに見られるのが辛かったのでしょう。自分の姿が気付かれないように車の中から子供たちの元気な稽古を、淋しそうにして見ていました。姿は見えなかったのかも、声も聞こえなかったのかも、それでも子供たちの側に近くに行きたかったのだと思います。

ある時、人から、「何度電話をかけても出ない、どうして電話に出ないのか。」とやっと通じた電話で聞かれました。私は「息子が入院しているので毎日病院へ行っているから。」と答えました。返ってきた言葉は、「気違い病院か、どこの気違い病院か。」という問いでした。くやしくて涙が止まらなかった。又、「何の病気なんだ、精神病かい、アル中かい、とうとう気違いになっちゃったのか。」。人の口から口へとうわさは飛びました。周囲から見れば、そう見えたのかもしれない。

海の大好きだった息子は学生時代すごした勝浦に連れていってほしいと娘に伝えた。3人で勝浦の海へ行き、この海で4年間思いっきり遊び、たくさんの思い出を作り、勝浦のお祭りがあると毎年出かけて行きました。たくさんの友達にも会いたかったと思います。

10年前に事故さえなかったら、手術さえしなかったら、今こんなに悲しいことがなかったのに。精神病、アル中、自殺とうわさをされながら、このままだったらうわさは消える事がないと思います。私たちの心の中でもヤコブ病という病名を世間の人達にわかってほしい、マスコミを通じて、くわしく病名がわからずこの世を去ってしまった方もいると思います。今、病名がわかり、苦しさとたたかっている方、御家族の方の事を考えると、何とか今の医学で治してあげる事が出来ないのか、あせる気持ちでいっぱいです。世間の人達に、マスコミを通じ、ヤコブという病名をくわしく知らせて頂きたいと思います。2度とこの苦しみをくり返す事がないように。


この文章は、CJD薬害訴訟を支える会ほか編「心のさけび(第2版)」に掲載されたものです