林琢己君の絵画遺作展を
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私は原告の林勲男です。

  私の次男琢己は1983年当時13才で脳腫瘍の摘出手術を受けました。その時ドイツのB.ブラウン社製のヒト乾燥硬膜ライオデユラを移植されていたのです。そんなこととは知らず下半身麻痺と言う障害がのこりましたが、本人と母親との二人三脚で大変な努力を積み重ね車椅子での生活で手先も不自由だったけれど頑張って自分のことはほとんどの事が出来るようになっていました。
 リハビリにと始めた絵も上達し、毎日絵を描いたりパソコン、ワープロ等の仕事も請け負い自立に向け充実した日々を送っていました。そんな時1998年春ごろから眠い、体がだるいと言い出し、秋ごろには原因不明の容態で入退院を繰り返していました。翌年に入り状態は悪くなる一方で、一日中寝たきりという日が続き無言無動状態になってしまいました。
 1999年暮れ、医師からクロイツフェルト・ヤコブ病だと知らされました。聞いたときは何がなんだか分からなかったのですが、次第にこの病気が薬害で悲惨な難病で治ることがなく1〜2年で命を奪われると分かり、日に日に悪くなっていく息子を見ていて腹立たしい、悔しい、無念だという気持ちで看病していました。回復する見込みのない悲惨な難病に少しでも楽に、そして床ずれが出来ないように一日でも長く命のあることを願い毎日母親は病院に通っていました。
 入院中多くの方々にお見舞いに来て頂き、お花や励ましのお言葉を頂き誠にありがとうございました。琢己はお見舞いに来てくださった人に何も言うことが出来ず、目にいっぱい涙をため嬉しさあるいは悔しさを表していたのか、それが唯一の表現でした。息子は自分だけが何故こんな目に合わなくてはいけないのかと悔しがっていたのだと思います。
  このように懸命に看病してきたが今年1月20日に力尽きかえらぬ人となってしまいました。急に容態が変わり雪の降る夜で車が渋滞していて、私は死に目に立ち会ってやることが出来ず残念でなりません。琢己そして母親や私、又家族一同無念という言葉しかありません。覚悟は出来ていたとは言え、死という現実に出合うとやはりさびしく虚しい日々が続き、悔しさは日を追うごとに増すばかりです。悔しい思いで命をたたれた琢己は薬害によるヤコブ病で殺されたといっても過言でない死でした。この無残な死を見過ごすことは出来ず、無念を晴らすため訴訟に加わり頑張っています。
 裁判では原告弁護団の追求により、厚生省そしてB.ブラウン社、日本BSS社の責任の重大さが明らかにされました。私たち被害者は支える会の皆様や薬害追放に賛同してくださる人達そして一人でも多くの国民の方々に、この薬害ヤコブ病の悲惨さを知って頂きまして、ご理解を頂き協力を得て早期に公正な判決を得、被告厚生省又は被告二企業の心からの謝罪と救済そして薬害を繰り返さないと言う確約をさせ、早く琢己の霊前に報告できるよう頑張りますので皆様方のご支援よろしくお願い申し上げます。
 
        薬害ヤコブ病大津訴訟     原告   林 勲男         2001年2月23日
 
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